情報教育で必要な
    倫理とは何か
−必要な情報を必要な人に
という自己規制−
東京都世田谷区立千歳小学校 坂井 岳志
 
1,なぜ今「情報教育」なのか
 この世界には様々な情報が溢れている。それを教育にどう生かすのか、児童の成長にどう生かすのかを考えることが重要である。世に言う情報教育は、コンピュータ教育を中心に、情報倫理や情報化社会の特徴等を学習していくことを言う。そこに、コンピュータのプログラミングの技術などを習得させることを加えている。しかし、情報教育の真の重要性は、今までの受動的な学習姿勢から能動的、主体的な学習への根本的な変換が社会から要求されてきているという事なのだ。今までも問題解決学習などでは、児童の経験を大切にし、主体的な学習を展開しようと試みてきた。暗記中心の注入主義と正面から戦ってきたグループが存在した。しかし、小中高大と続く学校制度や各会社の大学による選別は続いてきた。
 ところが、社会の方からそのようなパターンでは会社や社会が成り立たないと言ってきた。現在のシステムによる人材では、国際競争に勝てないと言うのだ。そこで、教育に新しい人材の開発を求めてきた。だから、情報教育には二つの立場がある。
 一つは社会の要請を受けて、激しい国際競争に打ち勝つ情報操作に長けた人材を育てる。主体的に生きる存在として要求されるのは、新しい競争社会に打ち勝つためなのだ。そのため、日々更新される情報の変化に遅れることはできない。立ち止まったときが引退の時で、すぐにその人間は他に取って代わられる。そこには、人間は残らない。システムだけが生き残る。
 もう一つが、人間の一人一人の存在をかけがえのないものとし、取って代わられる存在などあり得るはずもない。だから、情報教育は、その人間の主体的な意志に基づいた自己変革のために利用される道具として使われるべきだ、という立場だ。当然、教育は極めて社会的な営みだから、二つの立場が完全に分離しているわけではない。しかし、どちらから情報教育を見ようとするのかは、根本的な相違をもたらすであろう。ここでは、「情報教育で必要な倫理性」を国家から規制されるのではなく、児童にとって必要な情報とは何かを問い、情報を作成し伝達していくことを中心に考えていきたい。また、教師が情報を作成するのではなく、児童自身が情報制作者であり発信者になれるような学校のあり方を考えていきたい。
2,情報操作の中核としてのコンピュータ利用の現状
 現在、コンピュータは様々な分野で利用されており、いい意味でも、悪い意味でも、社会にとって必要欠くべからざる存在となっている。情報教育は、本来コンピュータに限らず、様々なメディアや機器によって考えられるべきだが、ここでは情報収集力、情報処理力、情報生成力、情報伝達力を併せ持つマルチメディアの中核としてのコンピュータを中心に、考えていきたい。
@インターネットでの情報収集
 最近の新聞では、インターネットという言葉が載らない日を探す方が難しい。それほど、注目されているインターネットだが、現実にどのような使われ方をしているのだろうか。4年社会の学習で利用した例で考えてみよう。
 地域学習では、副読本が利用されることが多いが、児童が少しでも疑問を持ち、「なぜ?」を重ねていけば、すぐに対応ができなくなってしまう。図書室にも資料はないし、あったとしても、資料の発行年月日は古い。そんなとき、インターネットは、とても強力な資料の収集の道具として登場する。
 検索エンジンの一つである「YAHOO JAPAN」で地域のページを選び、東京都に関係のあるホームページを選び出した。様々な地方自治体のページがあるが、その中でも東京都の作成しているホームページは非常に巨大で、全てをリアルタイムで見るには、かなり時間がかかってしまう。そこで、自動ダウンロードソフトを利用し、夜中接続し、データをPDという外付けの記憶装置にかきこんで保存しておいた。学校では、別のパソコンにつなぎ、児童が必要に応じて調べ学習の資料として活用した。これだと、電話回線は必要なく、また、無限に情報にリンクしていくことにはならない。ただ、興味関心に応じた発展的な情報へのアクセスはできない。
 この東京都のホームページの中では、様々な資料が提供されている。例えば、「東京の各地の写真資料」や、「交通量の多い交差点ベスト5、乗降客ベスト5,一人当たり公園面積の全国比較などのグラフデータ」、「東京都の行政組織」、「知事の演説」などの最新の資料がわかりやすい形で並んでいる。
 また、ゴミの授業を行ったときは、環境に関連したホームページを検索し、様々なデータを収集した。鳴門教育大学の環境のページは大変充実していて、参考になった。
 天気の情報や「ひまわり」からの衛星写真もリアルタイムに入手できる。天体写真や、博物館などの情報も入手することができる。
 これらの例の様に、インターネットのホームページ上には、少しコンピュータを使えれば、いくらでもアクセスできる膨大なデータ群が提供されている。
Aパソコン通信やメールでのコミュニケーション
 インターネットやパソコン通信で、お互いの意見を交流させることは、一方的な情報の受け取り手に過ぎなかった児童の立場を変えることができた。集めた資料には、必ず疑問が生じる。また、別の資料が必要になったり、お互いの共同の活動がしたくなったりする。そのときに、通信は人と人を結びつける大切な道具となる。
B自己表現の手段としてのホームページ
 児童が情報を受け取っているだけでは、満足ができない場合が出てくる。自分たちが調べたことや研究したことを知ってほしい、評価してほしいという意欲を持つ。作文や絵、工作も同様なことが言える。創作への意欲が、ホームページ作成につながっていく。
Cパソコンでの物品情報へのアクセス
 学校では買い物はできないが、インターネットを利用すると、世界では、「どんなもの」が、「どのくらいの値段」で売られているのかが、すぐにわかる。また、実際の購入の仕方も理解することができる。現状では実際に学校からのアクセスで物品の購入は困難ではあろうが。
Dデジタルカメラやビデオによる情報収集
 デジタルカメラやビデオを児童に操作させることにより、児童の視点から情報を収集することができる。情報は、人から受け取るだけでなく、自分から収集したり作成することができるのだと言うことを理解できる。学習に対する受動的な態度を変える力を持っているのではないか。
 東京青山の子どもの城を見学に行った児童が、その時の様子を克明にデジタルカメラで記録してきた。何が自分たちにとって価値ある情報なのかを考え、場面を切り取る。そしてその画像情報にコメントをつけていくのだ。今までのように、教えられることを記憶するのではなく、問題を考え、行動し、記録したことを再構成して発表するという一連の主体的な学習の姿が浮かび上がる。今回は静止画だが、当然ビデオでも作成できる。現在はビデオのコンピュータによる編集はかなり技術的に困難な部分があるが、近い将来には児童でも簡単にできるようになるだろう。これらの写真や映像による表現は、大変効果的で、これからの児童の自己表現の中心の一つになっていくだろう。
3,情報教育における問題点
 このようにインターネットを中心として、多くの利点があるが、当面する問題点も多い。
@インターネットでの有害な情報の現状
 インターネットは、全ての情報に対し、アクセスできる可能性を持つ。その中には、暴力、性的情報を中心とした有害な情報が多数存在する。一国だけで、規制しようとしてもインターネットは世界中に接続できるので、規制は事実上無意味である。現状では、ポルノの日本税関の検閲は完全に無意味となった。また、原子爆弾の製造法やパイプ爆弾の作成法なども、インターネット上から取得する事ができる。ベルギーでおきた少女誘拐殺人事件はビデオを作成するために行われたが、この販売ルートの一つにネットワークが利用されていたという。この販売情報を提示していた会社は、内容について一切の規制をかけていなかったという。また、日本でも、小学生を斡旋するというような情報をパソコン通信にのせて、数百万円の利益を上げたという詐欺師が逮捕されている。どこからが犯罪であるかは、国家によって違う。しかし、情報の提供は、世界中に共通に行われる。同じ情報環境で世界が結びつく中で、ある国では犯罪であるが、別の国では商売として成立するのである。
 最近は、有害な情報に児童がアクセスできなくするために、ブラウザ(ホームページを見るソフト)に閲覧するレベルを入力し、暴力やポルノなどから守ることができるようになった。このホームページのレベルは、基本的に民間によって行われ、国家による統制とは違う。自主規制をする中で、表現の自由を守ろうという発想だ。
 現在の日本の教育では、情報に対し、自由にアクセスするような体制になってはいない。だから、このような問題はおこらないが、将来は必ず同様の問題を抱えることになる。日本の学校は情報へのアクセスに規制をかけるべきなのだろうか。そして、もし規制をかけるとしたら、だれがかけるべきなのだろうか。
Aパソコン通信やメールでの破壊的コミュニケーション
 パソコン通信をやっている人たちが、ネット上で喧嘩になった。顔もみていない人同士が、どうして喧嘩になるのだろう。パソコン通信上にはチャットと言ってリアルタイムに文章で意見交換をしたり、メールという手紙に相当するものがある。そこでやりとりをしているうちに、表現が激しくなってしまう場合がある。「文章ではニュアンスが伝わりにくい」、あるいは「顔の表情が見えない」等の理由で、悪い方へ解釈しがちになる。実際に会っていれば、その表情からメッセージを読みとることもできるが、文字だけでは難しい。相手の意見を聞いて、それを修正していく形になりにくい。
 また、ネット上に書き込まれた内容は、それが本当に正しいことなのかどうかがわからない。嘘や誇張が見分けにくい。教育の上で、インターネットを利用するときも、資料の検証は大きな問題だ。
 実際、ネット上で、誹謗中傷が個人名宛に送られることも多い。脅迫状が個人宛に送られたという内容がつい最近(96年12月)も、某ネットに載っていた。しかし、それさえも本当に正しいメッセージなのかも判断できない。私は、真実をこの目で見たわけではないのだ。全く難しい判断を迫られるのが、ネットなのだ。
Bホームページでの不誠実、不正確な自己表現
 ところで、インターネット上や通信上では、よく、匿名の参加をする人が多い。最近は実際の声を使って電話の様に話すことのできる機能を持ったソフトが多く出てきた。「Cool Meeting」というソフトもその一つだ。そこでは、同時に何人もの人々が、しかも世界中の人々が、自分の名前を一つの会議場に登録しておいて、だれかがアクセスしてくるのを待っている。お互いにアクセスする事に同意すれば、交流が始まるというパターンだ。さらにアプリケーションソフトの共有化ができたり、ホワイトボードに書き込んだ内容を開いても同時に見ることができたり、32人までみんなでおしゃべりできたりする。これは、大変便利なソフトなのだが、同時にこれからの色々な問題も象徴的に表している。このサイトに参加してくる人たちの中には匿名が多い。また、IDが滅茶苦茶なのだ。提示されているテーマは、下品だったり、問題の多い内容が多々ある。自分が特定されない場合は、発言に対し責任をとる姿勢がふらつく。音声を使わなければ、男女さえも見分けがつかない。多くの怪しげな情報が確かめようもなく、ネット上を流れていく。
C物品購入への欲望の拡大
 インターネット上では、世界の品物にアクセスすることができる。カタログショッピングの電子バージョンというわけだ。ただクリックし、自分のクレジットカードの番号を打ち込むだけで、品物が届いてしまうのだ。これは、欲望との戦いになる。カード地獄に陥ってしまうことになりかねない。
D情報操作、破壊への欲求
 ハッカーとしての、純粋なコンピュータへの興味から、最近は実利的なものを目指して、情報を操作する人々が出てきた。コンピュータの内部に進入し、情報を盗み出すことや、破壊することもできる。ネット上を流れる個人情報を解読し、クレジットカードの暗唱番号さえ見破られてしまう。ショッピングをインターネット上からするのは、まだ危険と言われる所以なのだ。コンピュータの知識を持った物は操作への欲望に駆られる。
4,倫理への教育の関わり
 情報の過度な流出に、規制の組織、国家が規制に乗り出してきた。その代表的な規制法が下記のアメリカの例である。
@アメリカの通信品位法(Communication Decency Act)
 クリントン大統領はホームページの内容に、規制をかけるべく通信品位法(CDA)を制定しようとしたが、インターネット利用者による反撃をくらい頓挫した。しかし、また新たな提案に向けて準備は続いている。これは、ホームページの内容が、あまりにも無制限で、反社会的な内容を含む物が多々見られたせいもある。
 しかし、何よりも、利用者の加速度的な急増に伴い、一般社会と同様に犯罪に近い行為をする者が増えたためだろう。年齢に関わらず、暴力やポルノ等が目に触れるようになり、そういう内容で商売を行う者も多くなった。また、暗号技術の発達は世界中の通信の内容を国家の監視から解き放つことになった。これはいいこととも言えるが、逆に、政府の目の届かない「聖域」がネット上にできたと言うことなのだ。権力を持つ人間は、当然のことながら、そこに規制を加えようとする。
 国家は、急速な情報の広がりに対し、危機感を持って受け止めている。共産主義国家の崩壊はテレビやラジオなど、メディアの広がりによるところが大きかった。しかし、これらのメディアは、規制をかけたり、内容に対して、国家がコントロールしやすい。しかし、インターネットはこれらのメディアとは違って、世界中に張り巡らされた電話を含めたネット網と、世界中のコンピュータ群がパソコンレベルまで接続されていて、国家による情報規制は事実上困難である。単独の国家による統制は不可能に等しい。
 また、国家による情報統制をインターネットの根本理念に対する挑戦と受け止め、規制に反対する動きも活発である。当面アメリカの法案は、裁判所により、その執行を停止された。インターネットは、一切の規制から切り離された、自由な表現の場であることを基本とするからである。
A日本のコンピュータ利用での倫理のあり方
 日本ではインターネットに警察の手が入り、画像の掲載者は逮捕され、プロバイダーも内容をチェックするよう言い渡された。ただ、内容の問題は、むしろアメリカのホームページより倫理性がないかもしれない。実質的なチェックは、プロバイダーの個々の判断に任されている。そこには、個人のプライバシーを侵害するものや、暴力的なもの、女性の尊厳を傷つけるもの、犯罪すれすれのもの、詐欺同然の甘い言葉等、かなり危険な部分を含んでいる。しかし、次第に児童への悪影響も考えられるようになり、パスワードによる危険なホームページへのアクセスの制限が可能になってきた。
B情報教育での倫理とは
 学校では、この様な社会環境の中で、どのような教育を目指していったらいいのだろうか。基本としては、人を人として尊重する態度を育てることが大切だろう。より良い人間関係を育てることが、教育の基礎であり、究極の目的と考えるが、インターネットの利用も、それらの態度を基盤として成立するのだろう。そして、インターネットを利用し、協力して学ぶことの大切さや面白さ、主体的な学習への関わり等を学んでいくのだろう。
 その中に、「ネチケット教育(ネットワーク上のエチケット教育)」という新しい観点が必要になるだろう。他者との交流に於けるネットワーク上の様々な手続きや挨拶など、基本的な人と人との関わりに於ける関係の取り方を育てていく必要があるだろう。この中には、相手を傷つけるような行為をしてはならないとか、個人の秘密を守らなければならない等、嘘の情報を流してはならない等、ネットワークを利用する基本的な約束も含まれている。その上に立って幾つかの情報教育での具体的条件が考えられるだろう。一つは、「正確な情報の把握ができる目を養う」ということだろう。何が的確で、どこに自分たちに必要な情報が存在しているのか、見極められる目を育てなくてはならない。もう一つは、それと裏腹の、「自己の情報発信内容の信頼性の確保」ということだろう。正確な情報に迫れるように、自ら取材し、誤りや誇張なく、情報を作成し、その情報を必要な人に、必要な時に発信できる児童に育てて行かなくてはならない。
 最後に、個人情報の保護の問題がある。これは、児童自身にも、またホームページを中心となって作成する教師側にも注意深く対応する必要があるだろう。過去において、住民一人一人の個人的な情報が本人の意思に反し、流出するのを防ぐ意味で作られたものだ。しかし、インターネットでは、その本来の意味とは違って、自らの意志で発信する側にも規制の網がかけられている。守るべき個人情報とは何か、という論議をきちんとつめて、現時点での学校ホームページ作成のガイドライン作りを急ぐべきだと思う。その活動は、インターネット上で多くの人たちで論議され内容を詰めて行くべきだと思う。
5,まとめ
 学校における情報の扱いは、基本的に、自らの責任と判断で決定していくべきだと考える。インターネットは、日本中の、いや世界中の人々との交流の中で構成されている。これは、今までの政府機関の上意下達のパターンとは全く異なる。学習のパターンも変化していくに違いない。学校の存在の仕方も、より社会に開かれたものになっていくだろう。社会教育と学校教育の壁はなくなっていく方向になるのかもしれない。
 しかし、全く規制がないのがいいとも思えない。児童を主体として、学校ホームページのガイドラインをユーザー側で自主的に作成していく必要がある。「必要な情報を必要な人にという自己規制」を、児童も教師も検討し、お互いに共通の基盤を持った児童同士の交流から始めていけば、個人情報の無制限な流出を防ぐことができるのではないか。いったい、「どのような情報」が、「誰にとって必要なのか」、ということを十分検討することが緊急の課題である。
              (教育と医学3月号より)