コンピュータを活用した授業
                   東京都世田谷区立千歳小学校 坂井 岳志
 
1,コンピュータを活用した授業は非人間的か
 コンピュータとは何なのだろう。チェスの名人がコンピュータに負けたということで話題になった。しかし、これはコンピュータに負けたのではなく、コンピュータ技術者に負けたのだ。コンピュータは技術者が考えたアルゴリズムに添って計算しただけだ。そもそもコンピュータを使った授業が非人間的になるという指摘は、的外れなのではないか。ノートや黒板を使うから、授業が非人間的になりますか。道具は使い方次第、使う人次第ではないか。
 
2,コンピュータを使った授業の可能性
 それではコンピュータをなぜ、使うのか、どんなところが可能性があるのかいくつか例を出しながら考えてみよう。
・コンピュータは授業を変える。なぜなら、教員が壇上に立って、全ての知識の体現者の様に君臨していた時代を終わらせる。今までも、そしてこれからも全てを知っている教員などいるはずもない。知らないから事前の準備をする。コンピュータは資料をデータベースとして保存しているし、それを容易に呼び出せる。教員はどこにその資料があるのかを知っていればいい。大切なのは、学習の流れなのではないか。
・学習は一斉授業だけでもなく、個別学習だけでもない。一人ひとりを大切にという事は個別と全体の関わりの中で実現される。個別学習と一斉授業の巧妙な絡み合わせが必要となる。コンピュータはそれをつなぎ合わせる道具として有効ではないか。
 たとえば、4年の社会科で「安全を守るために人々はどの様な工夫や苦労をしているか」という課題を調べていったときの事を考えて見よう。設定された課題をグループごとに調べ、地域の中に調べに入っていく。そこで収集した資料をコンピュータ上にまとめていく。デジタルカメラを各班に持たせ撮ってきた資料を、その中に入れて、説明をつけていく。その各班でまとめた資料をビデオプロジェクタや大型モニタで全体に発表する。発表した内容はプリンタで印刷し、掲示用新聞として生かされていく。
・コンピュータ上では、やり直しが容易である。また、再現性がある。何度でも納得のいくまで同じ事を繰り返し提示できる。黒板の様に、書いたり消したりで無駄な時間をとることはない。
・児童の発想に従って条件の変更が可能である。たとえば、算数の立体図形を回転させて、様々な角度から見て、展開図として切り開いたり、また、様々な図形の面積や体積の考え方を事前に入力しておき、子どもたちの発想と理解を助けることができる。まさに黒板代わりにコンピュータを利用することができる。
・インターネットを使うと、教室という空間や一人の教員で行う授業という形から大きく変わる可能性がある。子どもたちは、学校の外に目を向けるようになる。教科書や図書室の古い資料の呪縛からのがれ、大海に乗り出していく。そこには学校変革、授業の変革への大きな可能性がある。
 
3,コンピュータを使う場合の問題点
 では、コンピュータを使う場合の全てに問題はないかというとそんな事はありえない。コンピュータを使っても使わなくても、無計画で投げやりで、人任せ(コンピュータ任せ)な授業は、子ども達の良い方向の変化への力になりにくい。また、授業以外でも様々な課題がある。以下に問題点と思われることを整理してみよう。
・学習の流れの全てをコンピュータだけに頼ると、思考の範囲があらかじめコンピュータのデータを作成した人間たちの予想したものから広がらない。無駄や遠回りがないから、効率はいいが、お釈迦様の手の内でもがく孫悟空のようなもので、発展性が見られない。また、枠を広げようという児童の意欲も制限される。
・多くの教科では「話し合い」が重要となる。人と人との話し合いを妨げるようなコンピュータだけとの対話で学習を進める使い方は、集団として集まった学校という存在を無駄にする。
・コンピュータを使った授業の内容が、調べ学習に偏りがちになってきた。調べ学習そのものの問題点が指摘されている。知識を注入する形からの変化は好ましいのだが、先生がや児童相互が交わらない授業になりがち。そのため、資料の写し、底の浅い感想の羅列になりがち。
・コンピュータの操作ができない児童や教員にとって、心理的に焦燥感、恐怖感がある。壊してはいけない、できなかったらどうしようという感覚がある。そこで、既成の流れに当てはめた変化のない授業になりがち。
・教員のコンピュータの操作の習熟に時間がかかる。特に、既に自分のやり方を確立した教員にはなかなか入っていかない。それは、コンピュータが新しいことを学ぶことを要求するからだ。また、カンに頼らないきちんとした手続きを要求するからだ。教員は自分が知らない、できないということを認めたがらない。だから、学習効果があがらない。
・コンピュータの操作は、過去においてかなりの論理的な力と手続きが必要だったが、現在はかなり直感的な操作でできるようになっている。しかし、テレビと同じ感覚で使うには難しい。面倒だと思う人がいても当然。
・児童は気ままに、手続きを無視して操作する。それにコンピュータが十分耐えられない。自由に使わせていると、メンテナンスが大変。コンピュータの内容を十分知っている人間が必要になる。全ての学校にそういう人はいない。
・コンピュータを入れると、壊してはいけない、無くしてはいけないと考え、鍵をかけて利用を制限する学校が多い。その結果、埃をかぶることになっていく。黒板やテレビ、ビデオに鍵はかけません。守りすぎると、そのまま腐っていきます。
・インターネットを通じて、様々な情報が手に入る。しかしそこには、あらゆる情報が生の状態で存在している。有害と言われる情報も存在している。学校でそのような情報とどのように対処するのか考えなければならない。
・インターネットやメールなどを利用するとき、個人情報の保護を十分考えなければならない。また、児童の人権にも配慮しなければならない。
・ネットワークを利用するときのエチケットを児童に伝える必要がある。いわゆる「ネチケット」と言われるもの。放っておくと、悪口の言い合いになることがある。相手の存在を意識した利用の仕方を教えていく必要がある。
4,初志の会としての課題
 コンピュータの社会の中での急速な広がりは好き嫌いの問題を越え、道具としての定着化の段階を迎えている。学校においても、いわゆるプログラム学習の道具という感覚は無くなってきている。最近のコンピュータを利用した研究校の発表を見ても、算数のドリル学習のような技術習得型の利用の例は見られなくなった。かなりのスピードでコンピュータは学習の道具という考えが広まった。その中で、初志の会はコンピュータとどのようにつきあうのだろうか。単なる道具なのだから、しかしかなりパワーのある道具なのだから、効果的に使っていく必要があるのではないだろうか。コンピュータを使った「調べ学習」のあり方を考えていく意味でも、初志の会の厳しい検証で、より内容のある効果的な学習を確立していくべきではないだろうか。是非、共に考えていって欲しい。